古来、貴人の命を守るために毒見役は欠かせませんが、
戦国時代になると、さらに重視されるようになりました。
いつ命を狙われるかわからない下剋上の時代ですから、
毒見役にも多くの人数が必要になりました。
そうした毒見役のことを「鬼見役」といいます。
「鬼食い役」「鬼飲み役」ともいいます。
「鬼」という字には何やら厳めしい印象があるので、
「御煮味役」と表記することもあったそうです。
戦国時代が終わって天下泰平の江戸時代になっても、
鬼見役はやはり重要な役職でした。
徳川家康公に鬼見役の制度を設けるよう進言したのは、
伊達政宗公であると伝えられています。
じつは政宗公自身も若い頃、実の母親に毒を盛られて、
危うく命を落としそうになった苦い経験があります。
政宗公の母は、伊達家の宿敵である最上家の出身です。
いわゆる政略結婚で伊達家に嫁ぎました。
隙あらば伊達家を滅ぼそうとしたのかもしれません。
血を分けた親子でさえ油断できない時代なのです。
もちろん家康公も政宗公を信じていたわけではありません。
江戸幕府成立後も最大の敵対者と見なしていました。
二人は最後の面会をしました。
そのとき、この男ならば頼れると思ったのもしれません。
家康公は「秀忠を頼む」と政宗公に言い残しました。
あらゆる面で支えました。
贅を尽くして接待しました。
政宗公が自ら膳を運び、秀忠公に御馳走を献じました。
しかし秀忠公の側近から「待った」がかかりました。
「まずは伊達殿に鬼を見ていただきたい」と。
つまり、先に政宗公に毒見せよというのである。
天下の将軍をお守りする側近の立場からすれば、
それは当然の要求です。
ところが、政宗公はその側近の言葉に激怒します。
「何、この政宗が毒を盛ると思うか」と一喝します。
「たしかに十数年前であれば、徳川家も盤石ではなく、
あるいは毒殺も可能であったかもしれない。」
「しかし、そのような時代においても政宗は槍を交えて
正々堂々と戦ってきたではないか。」
「今さら毒を盛るような卑怯な真似をすると思うか。
四の五の言わず、さっさと食え。」
独眼竜と呼ばれた政宗公の鋭い眼光に圧倒されたのか、
側近はうつむいて黙ってしまいます。
秀忠公も恐る恐る料理に箸をつけますが、
もちろん毒など入っていません。
政宗公の心意気に深い感銘を受けた秀忠公は、
その後、政宗公を信頼するようになったそうです。
いかにも政宗公らしい男気あふれる逸話です。