もし古今亭志ん朝師匠に演じていただけるならばこんな噺が聴いてみたい
「絵描き」
三代目古今亭志ん朝師匠はたいへんきれいな芸風を持った噺家です。聞きほれてしまう美しい声、淀みなく川のように流れる話の展開、心地よいリズム感を持った話し方、人物の性格を的確に描写した言葉遣い、思わず笑ってしまう滑稽さ、そしてほろりとくる人情味。その魅力は尽きることなく、どれをとっても正に名人という他ありません。お亡くなりになってから時は経ちますが、その芸風は決して色あせることはありません。これからも永遠に語り継がれていくことと思います。
落語は一人で何役もこなす話芸ですから、口調や声色を使い分けて様々な人物に成り切らなければなりません。しかし一流の噺家の芸を観ると、必要なことは話術だけでないということがよくわかります。顔の表情や目付きや身振り手振りを駆使し、ときには扇子や手拭いも場面を描写する小道具に早変わりします。基本的には八つぁんと熊さんのように二人の会話で進行することが多いので、顔の向きを左右に振り分けて演じますが、ナレーションをするときは正面を向きます。つまりナレーターを含めると最低でも三役はこなさなければなりません。ですから一度に大人数が登場するときはたいへんです。
たとえば、志ん朝師匠が得意とした演目に「文七元結」という人情噺があります。登場人物が多く、しかも癖のある人物ばかりです。一人一人の細やかな心情の描写が求められる難しい噺です。そもそもストーリー展開にやや無理な点があり、そのまま普通に語るだけではどうしても話が旨すぎて不自然な印象を与え兼ねません。歴代の名人たちがこの難解な演目に挑戦してきましたが、みな独自の演出を創意工夫し、ひと手間かけて演じてきました。
志ん朝師匠も例外ではありません。心理描写に重点を置くことでストーリーの不自然さを感じさせない工夫が見られます。私の最も好きな場面は、赤の他人の命を助けるためになけなしのお金を手渡すところです。言葉と言葉の間を十分に空け、相手の顔をじっと見つめます。もちろん落語ですから目の前に相手はいないのですが、その真剣な眼差しと沈黙のうちに心理的な葛藤が見事に描かれています。鬼気迫る名演技と言えます。
私は常々落語がジャズに似ているのではないかと感じています。ジャズの世界には「名演あって名曲なし」という格言があります。楽曲としての音楽よりも実際に演奏される音楽を重要視する考え方です。同じジャズのスタンダードナンバーが、異なるミュージシャンによって演奏されることがよくあります。たとえ同じ曲であっても、それぞれのミュージシャンの個性が発揮された独自の演奏方法を聴くことができます。それがジャズの魅力の一つです。
落語の世界にも同じことが言えます。同じ演目を異なる噺家が演じますが、一つとして同じ語り口になることはありません。「ときそば」や「じゅげむ」のような基本的な落語のスタンダードナンバーでさえそうです。それぞれの噺家の奥深い個性的な芸風を味わうことが落語の醍醐味だと思います。志ん朝師匠の落語は志ん朝師匠にしか演じることができないのです。
その志ん朝師匠にもし演じていただけるならばこんな噺を聴いてみたいと思って「絵描き」という落語を創作しました。水墨画の巨匠である宗右衛門に育てられた鼓太郎が、生き別れた父親を探して旅をするという人情噺です。旅の途中で出会う人々に助けられたり騙されたりしながら最後は意外な結末を迎えます。もちろん叶わぬ願いではありますが、高座の志ん朝師匠を思い浮かべながら読んでいただければ幸いです。