「おいしいことば」は、次の十章を書いている。
「ウナギとマムシは似て非なるもの」
「日本にも世界にも三大珍味がある」
「どちらも価値ある新酒と古酒」
「イスラム教と豚肉」
「仏教と大豆」
「魚肉ソーセージとクジラのベーコン」
「胡麻と唐辛子が日本の食文化を変えた」
「世界を変えた三つの林檎とは」
「食べものもつぶやいている」
「おむすびはなぜ美味しいのか」
私は戦後の生まれであるから戦中戦後の食糧難こそ知らないが、昭和の経済成長を経て極めたバブル期の饗宴も、バブル崩壊後の清貧時代も、ハンバーガー1個が100円もしないデフレ時代も経験している。そして今は食品ロス問題や、相次ぐ食料品の値上げや、令和の米騒動に翻弄されて生きている。
いつの時代も生きるためには食わねばならない。食うことは生きることの本質である。懸命に生きるためには懸命に食わなければならないのである。そのため料理にも食材にも無自覚であってはならない。何を食うかはどう生きるかに関わる根源的な問題である。
そう私に教えてくれたのは、今から三十年も前に刊行された一冊の本である。「もの食う人びと」と題されたその本は、ジャーナリストの辺見庸氏が世界を紀行して食べものを取材したノンフィクションである。と言っても美味や珍味を紹介する食レポではない。残飯を食う人や汚染食品を食う人、あるいは何も食うものがない人たちの生き方を描いた力作である。
たいていのノンフィクションは、ジャーナリストが見聞きしたことを執筆するものであるが、「もの食う人びと」は違う。見聞きするだけでなく、筆者が実際に現地の人と同じものを食って書いている。同じものを食うことで、現地の人の生き方を理解しようとしているのである。
味覚は多弁である。美味いか不味いかだけではない。食べものの多様な個性を教えてくれる。それらを味わうためにも料理と食材に関心を持ち、由来や歴史を知る必要がある。何を食っているかわからないようであれば、どう生きるかわからないのを同じである。よい生き方を追究するには、よい食べ方を模索しなければならない。
聖書にある「人はパンのみのために生きるにあらず」という言葉を逆に解釈すれば、生きていくための条件に必ずやパンが存在するのである。パンなくして生きていくことができないこともまた人生の真理なのである。
その真理を知ることを目的として綴ったのが「おいしいことば」である。無論「もの食う人びと」のような大作ではないが、唯一の共通点があるとすれば、それは、食って書いているという点である。