本能寺の変が起きた原因については様々な説がありますが、
光秀が信長に恨みを募らせていたという説が有力です。
最終的に光秀が信長を討とうと決意した出来事は、
家康の接待に失敗したことだといわれています。
織田徳川連合軍は、ついに長年の宿敵だった武田軍に勝利し、
祝勝の宴が安土城で開かれて家康が招かれました。
光秀は信長から家康の饗応役に命じられました。
三日間にも及ぶ宴の重要な任務でした。
光秀は食材や料理を厳選して万全の準備をしました。
致せり尽くせりの大饗宴でした。
家康は光秀の心遣いに満足して信長に感謝しましたが、
信長は光秀の料理が全く気に入りませんでした。
膳の上の料理を光秀に投げつけると、大声で怒鳴りつけ、
家康の面前で光秀を散々に打ち据えました。
光秀は大勢の客人の前で大恥をかかされた挙句に、
その場で饗応役を解任されてしまいました。
それ以前も光秀は信長からひどい仕打ちを受けていましたが、
この出来事が本能寺の変の引き金になったといわれています。
ところで、信長はなぜ光秀の料理に激怒したのでしょうか。
一体何が気に入らなかったのでしょうか。
魚の臭いに腹を立てたという文献が残されていますが、
何の魚だったのかについては記録がありません。
当時の武将が好んで食べていた鯉だったかもしれませんし、
高級食材として扱われていた鯛だったかもしれません。
宴が行われたのは旧暦の五月ですから梅雨の季節です。
魚が傷むのが早かったのはたしかです。
しかし、万事に抜かりのない用意周到の実務家である光秀が、
そのような初歩的な失敗を犯すとは考えられません。
光秀が用意した魚は「ふなずし」だった可能性があります。
鮒を長期間塩に漬け込んで発酵させた保存食品です。
チーズにも似た独特の発酵臭があるのが特徴です。
それを信長は腐敗臭と思ったのかもしれません。
当時、光秀は琵琶湖を臨む坂本城の城主でしたから、
琵琶湖名産の「ふなずし」はよく知っていたはずです。
信長に仕える前は足利将軍家に仕えていましたから、
京都の貴人たちの食の好みもよく知っていたはずです。
きっと信長にも「ふなずし」の深い味わいと豊かな香りを
理解してもらえると考えたのかもしれません。
ところが信長は、珍しいものが大好きではありましたが、
残念ながら味音痴だったといわれています。
しかも京都の貴人たちか好むような洗練された料理は苦手で、
むしろ野暮な田舎料理の方が好みだったようです。
そこまで信長の嗜好を考慮しなかったことは、
光秀の痛恨の極みだったかもしれません。
しかし光秀の謀反を全く考慮しなかったことも
信長の痛恨の極みです。
わずかな手勢で無防備に本能寺に宿泊したために、
光秀の大軍勢に襲撃されてしまいました。
食べ物の恨みは恐ろしいという表現がありますが、
ある意味で、本能寺の変もその一例かもしれません。