おいしいことば

四季の料理と食材は美しい名を持っています。おいしい食べもののおいしいことばを探してみましょう。

子どものような素朴な疑問だがトビウオはなぜ飛ぶのか

トビウオが飛ぶのは子どもでも知っています。

しかし、なぜ飛ぶのでしょうか。

 

一般には、外敵から逃れるために進化したと考えられています。

マグロやカツオの方が、泳ぐ速度は速いからです。

 

水中ではいかに逃げても捕まってしまいます。

逃れる手段は、空を飛ぶしかありません。

 

トビウオが飛ぶ平均速度は、時速約50~70キロメートルです。

ちなみにモーターボートレースは、時速約80キロメートルです。

 

どれほど速いのかよくわかります。

その速度ならば敵の魚に捕捉されません。

 

しかも一回の飛行で数百メートルも飛びます。

その距離ならば敵の魚に捕捉されません。

 

では、飛んでいるところを海鳥に狙われることはないのでしょうか。

もちろん、その危険性も皆無ではありません。

 

しかし、一般に海鳥は海面付近を泳ぐ魚を狙う習性があります。

そのように進化してきたからです。

 

空を飛ぶ魚を捕捉することは得意ではありません。

しかも、相手は高速で飛ぶトビウオです。

 

ですから、トビウオが飛ぶのは理に適っているのです。

 

ただし、鳥類のように羽ばたくことはありません。

胸ビレを広げてグライダーのように滑空します。

 

また、トビウオの体は脂肪が少ないのが特徴です。

体を軽量化するために進化しました。

 

トビウオの旨みは、トロのような脂肪の旨みではありません。

タンパク質、つまりアミノ酸の旨みです。

 

長崎や福岡では、トビウオの出汁「あごだし」が好まれていますが、

アミノ酸の旨み成分がぎっしり詰まっています。

 

カツオ節の旨みとはまた違った独特の風味があります。

もちろん刺身にしても美味しいです。

 

ちなみに、トビウオは英語でもフライフィッシュといいます。

着水を誤って船に飛び込んでくる魚として知られています。

 

ヘミングウェイの小説「海と老人」にもトビウオが登場します。

船に飛び込んできたトビウオを老人が食べる場面があります。

 

獲れたての新鮮なトビウオですから、日本人ならば大喜びです。

ところが、小説ではそうではありません。

 

食料が尽きて他に食べるものがなく、老人は仕方なく食べます。

あまり美味しそうな描写ではありません。

 

老人は、次に船出するときライムと塩と持ってこようと考えます。

日本人ならば、醤油とワサビを持っていきたいところです。

 

赤い豆腐は本当に存在するのか

赤豆腐というと、お坊さんの使う隠語です。

マグロの刺身のことを指します。

 

しかし、赤い豆腐は本当に存在します。

沖縄の「豆腐よう」がそうです。

 

一体どのような豆腐なのでしょうか。

 

沖縄では昔から豆腐作りが盛んです。

それは養豚が盛んだからです。

 

豆腐を作る過程でできる「おから」を豚の飼料とするのです。

沖縄の豚肉料理が美味しいのは豆腐のおかげです。

 

もちろん豚肉だけでなく沖縄の豆腐料理も美味しいです。

ゴーヤチャンプルーは沖縄の代表的な豆腐料理です。

 

沖縄の豆腐は、島豆腐と呼ばれています。

独自の製法によって作られる豆腐です。

 

豆乳の味が濃く、食べ応えがあるのが特徴です。

チャンプルーのような炒めものにも向いています。

 

その島豆腐を泡盛、米麴、紅麹に漬けたのが豆腐ようです。

島豆腐が発酵熟成して独特の風味が生まれます。

 

豆腐とは思えないほどのとろりとした食感です。

まるでチーズのような濃厚な味です。

 

紅麹を使っているために色が赤くなります。

まさに赤い豆腐です。

 

チーズがフランスのワインによく合うように、

豆腐ようは沖縄の泡盛によく合います。

 

年代物の泡盛は古酒(くーすー)と呼ばれますが、

豆腐ようは、その最高の相棒です。

 

豆腐ようを一口味わい、古酒を一口味わう。

これ以上の人生の至福はありません。

 

沖縄が長寿県であるのも納得できます。

 

赤豆腐とはどのような料理か

赤豆腐という名の料理があります。

じつは豆腐ではありません。

 

マグロの刺身のことをいいます。

お坊さんの間ではそう呼ばれています。

 

仏教では生き物の殺傷が禁じられています。

肉や魚を食べることも許されません。

 

しかしこっそりと食べられることもあります。

密かに食べるために隠語を使います。

 

そのためマグロの刺身は赤豆腐と呼ばれます。

 

現代では脂の乗ったトロが珍重されていますが、

昔は脂の少ない赤身の方が好まれました。

 

冷蔵庫や冷凍庫がなかった時代のことですから、

脂の多いトロは傷みが早かったのでしょう。

 

猫でさえ、トロを食べずにまたいで通り過ぎるので、

トロは「猫またぎ」と呼ばれていました。

 

おそらく昔のお坊さんがこっそり食べていた赤豆腐も

色鮮やかな赤身だったと考えられます。

 

お坊さんの隠語は他にもたくさんあります。

 

たとえばエビは「緋の衣」といいます。

加熱すると緋色になるからです。

 

イワシは「紫の衣」といいます。

女房詞でも「紫」といいます。

 

紫式部イワシが好物だったそうですが、

それに因んだ命名と考えられます。

 

タコは「千手観音」といいます。

説明は不要かもしれません。

 

タコの八本足が観音様の手に見えるからです。

そのままの印象から名づけられました。

 

ドジョウは「踊り子」といいます。

跳ねる様子が踊るように見えたのでしょう。

 

もちろんドジョウは踊っているわけではなく、

鍋の中で熱くてたまらず跳ねているのです。

 

ちょっと残酷に感じられるかもしれませんが、

お坊さんには貴重なタンパク源です。

 

普段あまり滋養を摂らないお坊さんにとって、

たいへんはご馳走だったと思われます。

 

サンマのいないスダチの季節

夏が終わり、スダチが出回る季節になりました。

青々とした姿を八百屋さんの店頭でも見かけます。

 

爽やかな香りと酸味は、何といってもスダチの魅力です。

さまざまな料理に合いますが、焼き魚には最適です。

 

とくにサンマの塩焼きには、やはりスダチです。

相思相愛の食材です。

 

例年、サンマは八月の下旬から市場に出始めます。

秋が深まるに連れて水揚げ量も増えていきます。

 

初めは、北海道の根室、釧路、厚岸からやってきます。

次に三陸宮古、大船渡、女川、気仙沼、釜石からやってきます。

そして、小名浜、銚子と続きます。

 

南下するほどサンマの脂も乗ってきます。

お値段もお手頃になってきます。

 

ところが、ここ数年は高値が続いています。

サンマが獲れなくなっているからです。

 

値段が高いばかりではありません。

驚くほど、身も小さくなっています。

 

魚屋さんで見かけても、ちょっと躊躇して手が出ません。

もうサンマは庶民の味方ではなくなったのでしょうか。

 

もちろん漁師さんも必死に努力していらっしゃるのはわかります。

流通業者さんも小売業者さんも、皆さんが必死です。

 

私たち消費者もそれを理解しなければなりません。

そして、スダチにも理解してもらわなければなりません。

 

ごめんね、君の相棒が現れるのは、まだ先になりそうだ。

もう少し待ってもらえないかと。

 

今年のスダチは、心なしか例年よりも酸っぱく感じられます。

 

ハッサクの名の由来

ハッサクは、広島県因島原産の柑橘類です。

 

甘みは少なく、上品な酸味があります。

そしてほのかな苦みが特徴です。

 

甘く食べやすい柑橘類が現代の主流ですが、

古来の独特の存在感を示しています。

 

皮を剥いた瞬間に立ち昇る爽やかな香りは最大の魅力です。

 

その代わり、皮が厚くて剥きにくいのですが、

無骨なところもハッサクらしい特徴です。

 

江戸時代に因島のお寺の境内で発見されたそうです。

ハッサクと命名したのもそのお寺のご住職です。

 

ハッサクは漢字で書くと「八朔」です。

旧暦の八月一日のことです。

 

新暦に換算すると、八月下旬から九月下旬に当たります。

毎年ずれるのは、旧暦が月齢に合わせているためです。

 

旧暦では、毎月一日は必ず新月の日です。

毎月十五日が必ず十五夜であるように。

 

ちょうど八朔の頃は、田の稲が実り始める季節です。

そのため「田の実の節句」とも呼ばれています。

 

昔から稲の実りに感謝し、初穂を贈答する習慣がありました。

また、八朔を祝う祭りも各地で行われています。

 

ハッサクという名は、八朔の頃から食べられるという理由で

命名されたと伝わっています。

 

しかし、実際には八朔の季節にハッサクはまだ熟していません。

食べられなくはないにしても、旬ではありません。

 

ハッサクが収穫されるのは、晩秋から冬の間であり、

市場に出るのは、冬から春の間です。

 

もしかしたら「八朔の頃から食べられる」のではなく、

「八朔の頃から実り始める」のかもしれません。

 

それが誤って伝わってしまったということも考えられます。

命名が謎めいているところもハッサクらしい魅力です。

 

はりはり鍋のはりはりとは何か

日本語には表現力が豊かな擬態語が数多くあります。

もちもち、こりこり、ふわふわ、ぷりぷり、などです。

 

食べものの食感を表すのにたいへん便利な言葉です。

それがそのまま料理名になることもあります。

 

たとえば「はりはり鍋」が、その一例です。

食感から命名されました。

 

では、はりはりとはどのような食感なのでしょうか。

 

はりはり鍋は、水菜と鯨肉を使った鍋料理です。

大阪の発祥と伝えられています。

 

かつて鯨肉は、安価で入手しやすい庶民的な食材でしたが、

安価でも美味しさを見逃がさないところは、さすが大阪です。

 

現在では、鯨肉が高価な食材となってしまったために、

豚肉や鶏肉も、はりはり鍋の材料に使われています。

 

肉の種類は変わっても、水菜を使うことは変わりません。

はりはり鍋は、水菜を美味しく食べる鍋料理なのです。

 

その水菜の食感を表す言葉が、はりはりです。

現代風にいえば「しゃきしゃき」でしょうか。

 

はりはりという表現は、古くから親しまれている言葉です。

はりはり鍋が登場する以前も使われていました。

 

たとえば女房詞にも、はりはりがあります。

切り干し大根のことを指します。

 

切り干し大根の漬け物は「はりはり漬け」と呼ばれています。

現代の「ぽりぽり」に近い表現ではないでしょうか。

 

昔は「はりはり」を「ぱりぱり」と発音していた可能性があります。

古代の日本語では、ハ行が「ぱぴぷぺぽ」だったからです。

 

やがて、ハ行は「ふぁふぃふぅふぇふぉ」に変化しましたが、

一部「ぱぴぷぺぽ」の音韻も残りました。

 

それを区別するために考案されたのが「半濁点」です。

「はひふへほ」の右上につける小さな〇の記号です。

 

安土桃山時代に日本にやって来たポルトガル人宣教師たちが、

キリシタン文献に導入したのが始まりといわれています。

 

当時の日本語をポルトガル語で説明した「日葡辞書」によると、

「にほん」は「二フォン」「ニッポン」と発音していたようです。

 

しかし、濁点や半濁点は、公的な文書以外あまり使われませんでした。

一般の文書は、濁点や半濁点のないひらがなで表記されていました。

 

どう発音するかは、読み手の判断に委ねられていました。

ですから、「はりはり」は「ぱりぱり」だった可能性があります。

 

もちろん「ふぁりふぁり」や「ばりばり」の可能性もありますが、

「ふぁりふぁり鍋」では、水菜を煮過ぎてしまった感じがします。

 

「ばりばり鍋」では、水菜の固い根元を生で食べる感じがします。

どちらも、水菜の美味しさが伝わってきません。

 

やはり「はりはり鍋」が、水菜に相応しい名前でしょうか。

 

拙著「四季の菜摘み」紹介

 食生活が豊かになると失うことがある。感謝の心である。「衣食足りて礼節を知る」という言葉があるが、逆もまた真なり。「衣食足りて礼節を欠く」こともある。今や、飽食の時代を迎え、豊かであるがゆえに、却って食べものに対する感謝の心が薄れ、礼節が失われている。

 一例が「食品ロス」である。食べ残しや売れ残りのために廃棄される食品のことである。日本国内の食品流通量の何と四割にも及ぶという。嘆かわしい限りであるが、嘆いてばかりもいられない。食べものを粗末にしない風潮を何とか築いていかなければならない。そのためには原因を知る必要があるが、原因の一つは明らかである。私たちが貧しかった時代の苦難を忘れてしまったことである。

 思い起こせば日本が豊かになったのは、そう昔のことではない。近代国家になっても農村は貧しかった。昭和の初期には東北、北海道で記録的な冷害が発生し、大凶作に見舞われた。また、太平洋戦争によって国土が荒廃し、戦中戦後は極度の食糧不足のために窮乏に陥った。

 昭和三十年代には、八郎潟干拓事業が始まった。当時の八郎潟は、琵琶湖に次ぐ日本第二位の面積を持つ湖であった。それを干拓してまで農地を確保するのは、食糧増産、とくに米を増産する目的に他ならない。すなわち、終戦から十年以上を経ても、まだ食べものが十分ではなかったのである。

 皮肉なことに、着工から二十年をかけて干拓事業が竣工する頃には、日本の食糧事情は大きく変わっていた。米が不足するところか、米が余る時代になっていたのである。まさに浦島太郎のような話である。

 日本は高度経済成長期を経て、洋食化や外食化が進み、ファーストフード産業が急成長した。家庭の食卓にも、インスタント食品やレトルト食品や冷凍食品が普及するようになり、もはや羽釜を使って「かまど」でご飯を炊く時代ではなくなった。食の多様化によって、米の需要は大幅に減少したのである。

 農業技術も飛躍的に発展して、農村でも機械化が広まった。農作物の生産量が増えるだけでなく、ハウス栽培により季節に関係なく一年中生産できるようになった。運輸や流通も急速に整備され、収穫されたばかりの食材が全国から集まり、店頭には連日多彩な食品が並ぶようになった。

 当然、消費者の意識も変わってくる。種類が豊富で供給量が多いだけでは満足しない。新鮮で美味しくて見た目がよくて、しかも手頃な価格でなくてはならない。舌の肥えた消費者の嗜好に合うように品種改良も頻繁に行われるようになった。

 昭和末期のバブル経済期になると、その要求はさらに高まり、高価であろうが、希少であろうが、世界中の美味しい食材や珍しい食材が日本の食卓に取り寄せられるようになった。

 かつて唐の玄宗皇帝に愛され、傾国の美女として知られている楊貴妃は、南国の高級果実ライチをとくに好み、産地の嶺南地方から長安の都まで早馬で運ばせたと伝えられている。さらに、それだけでは満足できず、木の枝から摘みたてのライチを食べるために、果樹を丸ごと大きな鉢に植え替えさせて運んだとの伝説もある。何ともわがままな話であるが、バブル経済期の日本人もそれに劣らぬほど贅沢であった。

 やがてバブル経済期が泡と消え、今度は健康ブームが訪れると、食材の栄養成分がにわかに注目されるようになった。従来のビタミン類や鉄分やカルシウムなどに加えて、リコピンカテキンポリフェノール、スルフォラファンなどの聞き慣れない栄養素を含む食材が次々に珍重された。

 食べものに関心を持ち、より品質の高いものを求めることは決して悪いことではない。むしろ、生産者にとっても消費者にとっても望ましいことである。生産者は価値のある食材を提供すべく一層努力するであろう。消費者は心から感謝してそれを有り難く享受するであろう。

 しかし、本当にそうであろうか。私たち消費者は本当に心から感謝して享受しているであろうか。価値のある食材を享受するということは、価値のない食材を受容しないということである。しかもその価値とは、私たち消費者が主観的に思い描く価値であって、食材の本当の価値ではない。その要求が過度に高まった結果、農作物はどうなったであろうか。良くも悪しくも、昔のものと大きく変わってしまったことは言うまでもない。

 たとえば、胡瓜一本を見てもそうである。昔の胡瓜は曲がっていた。曲がっているのが当たり前であった。表面には棘があった。指を刺すほどの鋭い棘であった。皮は固く、まるで食べられるのを拒んでいるようであった。実り過ぎた胡瓜には渋みがあり、これまた食べられるのを拒んでいるようであった。

 それでも昔の胡瓜は旨かった。畑で採り立ての胡瓜を井戸水で冷やし、豪快にかぶりついたときの快感は格別である。胡瓜の命を丸ごといただいた感じがする。決して大袈裟な表現ではない。まさしくそう感じるのである。あっぱれ、よくぞここまで瑞々しく成長したものだと褒めたいほどであった。

 昨今はそのような胡瓜が市場に出ることはない。曲がっているだけで消費者は敬遠する。仮に市場で扱われたとしても、固かったの、渋かったのと苦情が出ることは必定である。それは生産者にとっても流通業者にとっても避けたいことである。

 見た目が悪いと売れないのは胡瓜に限ったことではない。虫が食った葉野菜も不格好な形の果実も売れない。大根も人参も蕪も泥がついたままでは売れない。きれいに洗浄されている。わざわざ「泥つき」と銘打って売られるのは、葱と牛蒡くらいである。

 味もそうである。見た目以上に味の評価は厳しい。美味しくなければ当然売れない。そのため品種改良が繰り返され、おかげで果実は限りなく甘くなり、野菜は限りなく美味しくなった。昔のように、顔をしかめるほど酸っぱい夏蜜柑に出会うことも、跳び上がるほど辛い大根に出会うことも滅多にない。

 野菜のアクも少なくなった。かつて法蓮草はたっぷりの湯で下茹でしてアクを抜いたものであるが、今はその必要もないほどである。生でも食べられるサラダ用の法蓮草さえある。芋類も根菜類も皮をむいて水に晒す必要はない。アクが強い種類がほとんど姿を消してしまったからである。昔の野菜と現在の野菜は、まったく違うのである。

 じつは私の憂いはそこにある。たとえ見た目が悪くてもアクが強くても、野菜は野菜である。苦くても辛くても渋くても、野菜に罪はない。野菜は野菜自身のために生きているのであって、人のために生きているのではない。人が勝手に野菜を食用としているに過ぎない。それを謙虚に理解し、感謝していただくべきである。

 禅僧が食事の前に唱える「五観の偈」の冒頭には、次のような言葉がある。「功の多少を計り、彼の来処を量る」と。食事の用意にどれほど多くの人々の手がかかったのか推し量り、食材がどこからやって来たのか想いを馳せ、その尊さに感謝していただくべきである。意訳すれは、そういう意味である。禅宗では食事を作るのも修行ならば、それをいただくのも修行なのである。

 無論、誰もが禅宗の教えに従って僧侶のように修行を積んで生きているわけではないが、感謝の心を持つ姿勢には学ぶべき価値がある。品質の良し悪しに関わらず、縁あって巡り会えた食材の素晴らしい個性をしっかり味わう気持ちが大切なのである。

 「四季の菜摘み」は、その気持ちを伝えるために執筆した随筆である。私の書く文章にはグルメ情報はない。流行の料理もなければ、人気のレストランの紹介もない。あるのは食材の話ばかりである。一つ一つの食材を心から愛し、その食材の歴史を繙き、本当に美味しい食べ方は何であるかを真剣に考えた文章である。

 そのため食材に対する思い入れが強く、微に入り細を穿った文章になりがちであった。ともすれば、理屈っぽく感じられる箇所もある。自分で読み返してみてもそういう印象を受ける。しかし手直しするつもりはない。なぜならば、執筆に当たって私が目指したのは、普段食べている食材がじつはこの上もなく美味しいということを読者に再発見をしてもらうことだからである。そのためには微に入り細を穿って正確に書くしかない。その筆致が読者に伝われば幸甚である。

 できれば、この先もずっと四季の食材の素晴らしさを伝え続けていきたいと願う。そして、百年先の人々にも読んでもらえるように、現在の私たちの四季折々の食文化を詳細に書き残していきたいと願う。その願いが叶うのならば、四季の食材を心から愛する者として、これに過ぎたる喜びはない。