おいしいことば

四季の料理と食材は美しい名を持っています。おいしい食べもののおいしいことばを探してみましょう。

カツ丼の誕生

カツ丼はいつ、どこで生まれたのでしょうか。

 

じつはカツ丼の発祥地を名乗る地域は日本各地にあります。

カツ丼ほど多くの起源説を持つ料理はないとさえ言えます。

 

そのためカツ丼の発祥地を特定することは難しいようです。

同様にカツ丼誕生の時期も正確にはわかっていません。

 

少なくともトンカツが生まれた後であることは間違いありません。

おそらく明治の終わりか大正の頃ではないでしょうか。

 

数あるカツ丼発祥地の中でも早稲田発祥説はよく知られています。

しかも、卵とじカツ丼とソースカツ丼の二つの起源があります。

 

卵とじカツ丼は、早稲田にある老舗の蕎麦屋で生まれたと言われています。

 

この蕎麦屋早稲田大学の創設者である大隈重信公とも縁が深く、

大隈家御用達の看板を掲げていました。

 

あるとき、宴会のために用意したトンカツが大量に余ってしまいました。

トンカツは当時としては高価な料理ですから捨てるわけにはいきません。

 

しかし冷めてしまったトンカツをお客に出すこともできません。

店主が困っていると、常連客の学生の一人が提案しました。

 

では玉子丼のように料理してみてはどうかと。

 

そこで店主はトンカツをそばつゆで煮て溶き卵でとじてみました。

これが大評判となりカツ丼と呼ばれるようになったそうです。

 

この蕎麦屋は私も学生の頃に行ったことがありますが、

店内にはわざわざこんな貼り紙が掲げられていました。

 

「当店のカツ丼はこだわりカツ丼ではありません。

普通の蕎麦屋のカツ丼です。」

 

元祖カツ丼の店と聞きつけてやって来るお客も多かったようです。

期待し過ぎないように配慮していたのかもしれません。

 

残念ながらこのお店は数年前に閉店したと聞きました。

ちょっと寂しい気分です。

 

一方、ソースカツ丼は早稲田の学生が考案したと言われています。

 

この学生は大学近くの店でいつもカツライスを食べていたそうです。

さすがに飽きてきたので、あるとき食べ方を変えました。

 

丼にご飯を盛り、食べやすい大きさに切ったトンカツを乗せました。

その上からとろみをつけたソースをかけました。

 

トンカツの油とソースがご飯にしみて絶妙の味になったそうです。

これがソースカツ丼の誕生です。

 

この学生自らこれをカツ丼と名づけて店の名物とするように勧めたところ

あっという間に早稲田界隈に広まったと言われています。

 

ソースカツ丼にはもう一つ別の説もあります。

早稲田にあった西洋料理店で最初に作られたという説です。

 

ヨーロッパで料理の修行をしていたこの店の料理人が帰国し、

料理発表会で披露したのがソースカツ丼だったそうです。

 

ヨーロッパで出会ったウスターソースを巧みに使いこなし、

白米に合う日本人好みの味付けにしたそうです。

 

この西洋料理店は今はもう早稲田にはありません。

 

しかしソースカツ丼を作った料理人が福井県の出身だったため、

後にソースカツ丼は福井の名物料理になりました。

 

福井県でカツ丼といえばソースカツ丼のことを指します。

 

全国にはじつにさまざまなご当地カツ丼があります。

 

ご飯にトンカツを乗せるという点は同じなのですが、

美味しく料理しようとする発想はとても豊かです。

 

カツ丼ほど多くの地域性を持つ料理はないと言えます。

 

トンカツの誕生

トンカツはいつ、どこで生まれたのでしょうか。

 

トンカツは今では日本食としてすっかり定着していますが、

日本人が豚肉を食べるようになったのは文明開化の時代です。

 

当時横浜にあった西洋料理店で、高座豚に天ぷらのような衣をつけて

油で揚げた料理を売り出したところ人気を博したそうです。

 

高座豚というのは、横浜に居住する外国人の食用のために

神奈川県の旧高座郡で飼育されていた豚のことです。

 

おそらくこれがトンカツの原型のような料理ではないかと思います。

 

ポークカツレツという名前が初めてメニューに登場するのは、

東京銀座の老舗の西洋料理店と伝えられています。

 

明治時代の終わりの頃です。

 

初めはデミグラスソースを使って豚の薄切り肉をソテーに仕立て、

付け合わせには温野菜を添えていたそうです。

 

いわゆるフランス料理の王道を行くような調理法だったようです。

それが少しずつ日本人の味覚に合うように改良されていきました。

 

薄切り肉のソテーの代わりに厚切り肉をフライにしました。

そしてデミグラスソースの代わりにウスターソースを使いました。

 

これこそ私たちのよく知っているトンカツの誕生です。

 

トンカツがいつ、どこで生まれたか正確にわかっていませんが、

大正から昭和の初期には現在の料理方法になっていたようです。

 

また、ポークカツレツの別称としてトンカツという名前が登場します。

 

やがてトンカツという名前の方が一般的に使われるようになり、

ポークカツレツとは呼ばれなくなります。

 

トンカツが日本人に愛されるようになった大きな理由の一つは、

キャベツの千切りではないかと私は思います。

 

千切りなどと言うと若い人に笑われてしまうかもしれません。

今風に言えばキャベツのコールスローです。

 

トンカツとキャベツの千切りは相思相愛の仲ですが、

初めから添えられていたわけではありません。

 

日露戦争が始まるころ、ある店の若い料理人が兵役に取られて、

厨房の人手が足りなくなりました。

 

そこで手間のかかる温野菜を付け合わせにするのを止めて、

簡単に刻んで作れるキャベツの千切りに替えたのが始まりです。

 

しかしこれが大当たりします。

 

生のキャベツのおかげで油っこいトンカツをさっぱりと食べられます。

しかもソースのしみたキャベツがまた絶妙の美味しさです。

以来ずっとトンカツの相棒として定着しています。

 

もしトンカツがキャベツの千切りと出会っていなければ、

果たして今日のような国民食になっていたでしょうか。

 

運命の出会いと言えるかもしれません。

 

カツレツとコトレッタ

日本語のカツレツの語源はフランス語のコートレットに由来します。

 

もともとコートレットは料理の名前ではありません。

仔牛や仔羊の骨付きのバラ肉や背肉のことを意味します。

 

フランス語ではリブロースのことをコートと呼びます。

コートレットは小さなコートという意味です。

 

一般には肉の切り身にパン粉をまぶしてバターで焼く料理のことも指します。

 

豚肉のコートレットがポークカツレツの原型と言われていますが、

初期のポークカツレツはポークソテーのような料理だったようです。

 

むしろ日本料理のカツレツはフランス料理のコートレットよりも、

イタリア料理のコトレッタに近いのかもしれません。

 

イタリアにはコトレッタ・アッラ・ミラネーゼという料理があります。

ミラノ風カツレツとして紹介されることもあります。

 

まず仔牛のリブロース肉を叩いて薄く延ばします。

できるだけ薄く広げるのがコツです。

 

よく象の耳にたとえられます。レストランのメニューにも

オレッキア・デレファンテ(象の耳)と表記されることがあるそうです。

 

塩とコショウで下味をつけ、溶き卵にくぐらせてパン粉をまぶします。

 

パン粉は目の細かいものを使いますが、パルミジャーノ・レッジャーノ

あらかじめすり下ろしておきます。

 

カツレツのように大量の油で揚げるわけではなく、

フライパンで片面ずつキツネ色になるまで焼いていきます。

 

肉を叩いて薄く延ばす理由がここにあります。

火を通りやすくするための工夫です。

 

バターで焼く方法とオリーブオイルで焼く方法がありますが、

その両方を使って焼くこともあります。

 

オリーブオイルだけで焼くときは仕上げに澄ましバターをかけます。

カツレツのようにウスターソースは使いません。

 

焼き立ての熱々にレモンを搾っていただきます。

 

柚子胡椒

柚子胡椒は胡椒ではありません。

青柚子と青唐辛子で作る香辛料のことです。

 

九州地方では唐辛子のことを胡椒と呼び地域があります。

歴史的に唐辛子よりも胡椒の方が早く伝来したためです。

 

柚子胡椒は青柚子と青唐辛子を細かく刻んで塩につけたものです。

じつに簡単ですが、さまざまな料理に応用できます。

 

鍋物の薬味や焼き魚に添えると香りが豊かになりますが、

しかしそれだけではありません。

 

意外のことにパスタにとてもよく合います。

ハラペーニョを使ったタバスコに近いと思います。

 

薄く切ったニンニクをオリーブオイルで炒めて

火が通ったところに茹で上げたパスタを絡めます。

 

火と止めてから柚子胡椒を和えて完成です。

ペペロンチーニに負けない香りと美味しさです。

 

ところで最近、青柚子ではなく完熟した柚子を使っても

柚子胡椒が作れることを知りました。

 

当たり前の話かもしれませんが、

完熟した柚子の方が香りが数段上です。

 

しかし青唐辛子との香りのバランスを考えると

円熟した香辛料とはいえません。

 

昔の人はそこまで考えて柚子胡椒を作っていたのですね。

やはり先人の知恵には敵いません。

 

幽庵焼き

柚子の香りを生かした料理に「幽庵焼き」があります。

魚の付け焼きの一種です。

 

江戸時代の茶人、北村祐庵が考案したと伝えられています。

そのため「祐庵焼き」とも「柚庵焼き」とも表記されます。

 

幽庵焼きには、サワラやアマダイなどの魚の切り身が使われます。

ブリのような脂の乗った魚でも美味しく作ることができます。

 

まずは醤油と味醂と日本酒を同量ずつ合わせます。

そこに柚子を搾って漬け汁を作ります。

 

これを「幽庵地」といいます。魚を幽庵地に漬け込んでから焼きます。

焼くときは汁気を切って直火で焼きます。

 

醤油と味醂を使っているので慎重に焼かないと焦げてしまいます。

強火の遠火で手際よく焼きます。

 

表面が乾いてきたらときどき幽庵地を刷毛で塗ります。

照り焼きと同じ要領です。

 

焼き立ての幽庵焼きは柚子の香りが際立って美味しくいただけます。

焼き上がった後に柚子を搾るのとはまた違った風味です。

 

幽庵焼きは、冷めても柚子の風味がいつまでも残ります。

ですからお弁当のおかずにも向いています。

 

ところで、北村祐庵は茶人でもあり美食家でもありました。

たいへん鋭敏な味覚を持っていたそうです。

 

料理の素材や調理方法はもちろんのこと、料理に使った水が

どこから汲んできたものかまで正確に言い当てたそうです。

 

そればかりではありません。

田楽の豆腐に刺した竹串の産地までわかったと伝えられています。

 

じつは幽庵焼きは北村祐庵が考案したのではなく、

もっと後の時代に生まれた料理だと考えられています。

 

彼の時代には味醂がまだ一般的に普及していなかったからです。

調味料として手軽に使うことはありませんでした。

 

おそらく後世の料理人が祐庵の名を冠したのかもしれません。

とくに懐石料理では料理名にも風情が求められます。

 

偉大な先人に敬意を表したのでしょうか。

とても趣ある名称だと思います。

 

ゆべし

和菓子の中でゆべしほど多彩な顔を持つものはありません。

日本各地にさまざまな味と形のゆべしがあります。

 

ゆべしを漢字で書くと「柚餅子」です。

すなわち柚子を使った餅のお菓子を意味します。

 

しかし、もともとゆべしはお菓子ではなく保存食だったようです。

今から1,000年ほど前から作られたと伝えられています。

 

携帯しやすいように柚子をくり抜いた「柚子釜」を利用しました。

そこに餅米粉と味噌を入れて蒸して乾燥させた食品だったようです。

 

そのため、ゆべしの語源は「柚干(ゆぼし)」だという説がありますが、

もしかしたら「柚飯(ゆめし)」なのかもしれません。

 

私は福島の生まれですが、ゆべしは福島の銘菓として有名です。

 

しかし福島のゆべしに柚子は使っていません。

一般にゆべしといえば「くるみゆべし」のことを指します。

 

なぜ柚子の代わりにクルミを使うようになったのかわかりませんが、

昔は柚子が手に入りにくかったのではないかと考えられます。

 

柚子は柑橘類の中では比較的寒さに強い果実です。

栽培の北限は北関東あたりといわれています。

 

面白いことに、西日本で主流とされる柚子を使ったゆべしは、

北関東から東北にかけて姿を消します。

 

それに代わってクルミを使ったくるみゆべしが登場します。

柚子の生産可能な地域と見事に入れ替わっています。

 

ゆべしが菓子として普及するにつれて、柚子釜を使ったゆべしは

「丸ゆべし」としての地位を築いていきます。

 

薄く切られた丸ゆべしは透き通るような美しい飴色をしています。

甘さとほろ苦さが混然とした風味を生み出しています。

 

丸ゆべしは私が食べ慣れてきたくるみゆべしとは違った味ですが、

素材の個性を生かそうとする先人の創意工夫が感じられます。

 

ここは一言「旨いと言うべし」でしょうか。

 

三日とろろ

三日とろろとは、お正月の三日にとろろを食べる習慣のことです。

この日にとろろを食べると無病息災で一年を過ごせると伝えられています。

 

また、お正月のご馳走をたくさん食べて胃も疲れているでしょうから、

消化の良いとろろで胃を癒してくださいという意味もあるそうです。

 

私の生まれ故郷の福島に古くから伝わる風習ですが、福島だけでなく、

東北地方、関東地方、中部地方の各地に残っているお正月の行事です。

 

私は以前、拙著「四季の菜摘み」にも書きましたが、貧しい時代の農村に

胃が疲れるほどのご馳走が本当にあったのかと疑問に思っています。

 

むしろお正月といえども三日目になると食べるものが少なくなり、

せいぜいとろろ程度しかなかったのではないかと考えています。

 

三日とろろを食べると何だか切ない気持ちになります。

 

ところで今年は東京オリンピックが開催されますが、

56年前にも東京オリンピックがありました。

 

そのときマラソンランナーとして大活躍したのが円谷幸吉選手です。

銅メダルを獲得して一躍国民的な英雄になりました。

 

真面目で努力家で愚直なまでに誠実な人柄で知られていますが、

陸上選手としての栄光は、残念ながら長く続きませんでした。

 

次のメキシコシティオリンピックを目指して懸命に努力するものの

不運が続き、思い通りに結果を出すことができませんでした。

 

周囲の過度の期待の中、挫折や苦悩と必死に戦いますが、

最後は力尽き、自らの命を絶ってしまいます。

 

その円谷幸吉選手が残した遺書の中に三日とろろが出てきます。

「父上様、母上様、三日とろろ美味しゅうございました」と綴っています。

 

円谷幸吉選手は福島県の出身です。

おそらく正月に帰省して家族と一緒に三日とろろを食べたと思われます。

 

亡くなったのが1月9日ですから、すでに覚悟を決めていたかもしれません。

どのような気持ちで三日とろろを味わったのでしょうか。

 

その心情を推し量ると本当に切なくなります。